著者からの御挨拶――言論の自殺を招かぬために

 新刊『真正保守の反論』(飛鳥新社)を、保守論壇のみならず、私の『新潮45』論文を批判した方などを含め、広く寄贈したが、その際、以下の文章を同封した。

 本書は、朝日新聞による私への名誉棄損5000万円訴訟を論じた文章に始まり、昨秋拙論「政治は生きづらさという「主観」を救えない」が原因で、『新潮45』が廃刊になつた事件で終つてゐます。

 いづれも一人の文筆家が通常経験し得ない異常な筆禍事件ですが、前者は産経系マスコミ以外は週刊誌も含め完全黙殺、後者では私はネットの組織動員による罵倒やテレビのワイドショー、月刊誌などで一方的に断罪されるのみで、幅広い言論人が、私と言葉をきちんと交へて公論を展開する事もなく、出版・マスコミ界は充分な場を提供もしないまま、うやむやになつてゐます。

 言論の自由は、一人一人が言葉の力を自ら鍛へ、対話の場から逃げず、論じにくい事をこそ、しつかりと議論する事を通じてしか守られません。

 言論人が内なる言葉を耕し、耕された言葉を社会に戻し、そこから生じる波紋を単なる誹謗中傷合戦ではなく、それぞれの言論人が内なる自己と向き合ひ、自らの教養、思考による精錬を経て、再び社会に戻す事――そのやうな往還の中にしか、言論の自由は存在しません。

 言論の自由は憲法の条文の中に実在してゐるものではありません。

 また、言論の自由の敵は政治権力による絵に描いたような弾圧とは限りません。

 現政権に言論を抑圧する力と意思とが如何にないかは、森友加計事件の虚報、捏造に対してどれ程対処できなかつたかを見ても明らかでせう。フェイクニュースの大規模な流布による倒閣運動は日本の熟達した政治指導者も想定してこなかつたケースだつたのです。

 マスコミ・出版を少数者が独占する事による「権力」――これは近代政治学が規定、研究、抑止を考へてこなかつた重大な自由民主主義の盲点です。

 かうした巨大な盲点がある現在、言論に携はる一人一人の怯懦、不勉強、無能、不道徳の小さな蓄積こそが自由を殺すといふことを、私たちは強く肝に命じねばならないのではないでせうか。

 政見・党派に別れて、左右が相手に届かぬ言葉で罵詈雑言の礫を投げるか、不都合な事は視聴者や読者から隠す、そして本当に論じるべき事の多くを論者たちがタブ―にしてしまつてゐる――現在、日本の言論はこのやうな危機的な自滅傾向にあるのではないでせうか。

 私は子供のころから文壇・論壇の動きには関心を持つてきましたが、左右といふ事を別にして、この十数年程、粗雑で質の低下した時代は記憶にありません。

 ネットでの破壊的な言葉、罵詈雑言の数々。

 党派的分断。

 ステレオタイプと無思考。

 マスコミや大出版社は、リベラル左派が占拠し、歪曲の限りを尽くした報道、更には報道しない自由、知らせない自由を駆使し、一方右派はその状況にいら立つ中で、ニッチで過激な産業と化しがちです。

 私自身、党派的な人間と目されてゐますが、さうであつた試しは一度もありません。私は政治的な発言においても、自己の良心のみを鏡にしてきましたし、思考停止や輿論誘導の誘惑にかられた事は一度もありません。一貫して、自ら考へ、個人としての責任で語り、対話を求めてきました。

 本書は、さうした言葉による実践の記録です。

 本書の後、私の仕事は五月刊行予定の、フルトヴェングラーとカラヤンを軸にした大部の指揮者論集を皮切りに、保守思想に関する包括的な研究、フランス革命とナチスドイツ問題(近代病理の根源)、記紀萬葉からの日本精神史などへと、巨大な主題に集中して取り組む予定です。

 かと言つて、本書に表現したやうな論壇的な仕事は、さうした思想や美の営みと別物ではありません。

 本書は政局的、保守ビジネス的な書物ではなく、私の思想の営みの一環であり、それが社会的な思想戦、啓蒙の形をとつたものです。

 本書をよく読んでいただければそれは了知していただけるものと確信し、本書を謹呈申し上げます。