月刊Voice10月号掲載『保田與重郎と萬葉集<前編>』を読んで――スタッフ日誌

萬葉の旅

今までのスタッフ日誌は讀書の學のレポートのみでしたが、これからは他のことも綴って参りたいと思います。今日はその第一回目として、月刊Voice10月号に掲載された理事長論文『保田與重郎と萬葉集<前編>』を読んだ感想を述べさせて頂きます。もし読者の皆様の中で、ご自身も感想を伝えたいという方がいらっしゃいましたら、会員サイトへ書き込みをお願い致します。

 

■保田與重郎と萬葉集と小川榮太郎

日本平和学研究所で毎月開催している勉強会「讀書の學」では、桶谷秀昭著『昭和精神史』を読みながら、その時代背景や歴史について小川榮太郎による解説を聞く時間が設けられています。そこで何度も強調されてきた事が、時代の精神性や歴史を理解しようと思うならば、その時代に身をおくつもりで思考しなければ、全く意味が無いという考え方です。

戦前も戦中も終戦直後も、現代の価値観から離れる努力をせずに観てしまうと、自分が生まれてからこんにちまでの間だけで育んできた、非常に個人的で褊狭な時代の捉え方になってしまいます。これは言われてみれば当然の事であるものの、意識せずに実行できている人は意外と少ないのではないでしょうか。

月刊Voice10月号に掲載された小川による論文『保田與重郎と萬葉集<前編>』では、一般的な萬葉集理解が如何に近代の価値観に囚われているかが紹介されています。

“アララギ的萬葉集理解は、戦後の主流となり、近年の中西進誌に集大成されるやうな、ヒューマニズム乃至(ないし)は大河ドラマ風の萬葉集理解に至つている。萬葉人も現代人も同じ人間だとして、現代のヒューマニズムに萬葉集の側を引き寄せる読み方である。”

私自身、主流とされている萬葉集理解に詳しいわけではありませんが、ここから私が想像するのは、現代人の上から目線です。萬葉人も現代人も人間であることに勿論変わりはありませんが、これを「同じ」と見做して現代の価値観に「引き寄せる」ことに垣間見える本音は、存在したかもしれない萬葉人の独自性や、その時代の特殊性を無視、或いは想像する努力を放棄して、同時に、現代人の価値観こそがより多くの情報量や経験値に基づいているとして、明らかな優位性を持たせているということです。

歴史の本当のところなど誰にも分かりっこないけれども、それでも残された歌や文献をヒントに、それをできるだけ当時の人間に成り代わって想像しようと試みる事こそが、歴史を知ることの面白さであり本来の価値なのではないでしょうか。その試みを抜きに現代の価値観を当て嵌めるだけで、誰もが簡単に理解できる結論を与えてしまう事は、例えそれが「主流」であったとしても、「本流」であってはあまりにも御座なりです。学校の歴史の授業がつまらない最たる理由はそにあると言えば、多くの方が納得するのではないでしょうか。

『保田與重郎と萬葉集<前編>』では、保田の萬葉集の読み方が「主流」のそれとは全く違う事が指摘されています。

“(ニューマニズム的な萬葉集の読み方との対比として)個々の歌人を尊び、味はふのが悪いはずは無いが、萬葉集を本当に理解するには、まづそれと同質の「国の心」が存在する、そちらの方を丸ごと受け入れてからでなければ本当に読めた事にはならない、いはば保田はさう言つてゐるのである。”

誰もが平等に同じ人間で、夫々の幸福を追求する権利があるといったような近代的ニューマにズムにおいて、「国の心」などと言うものは恐らく最も毛嫌いされるものではないでしょうか。しかしながら、個人主義と自由と平等こそが近代を象徴する価値観だとするならば、明確な身分の差があり、お家断絶の危機や、皇位継承を巡る争い、更に知識社会で漢文が重宝され國語が失われるかも知れないという切迫した時代の空気感を、どう推し量ることができるでしょうか。現代の価値観で過去を見る事の無意味さを、萬葉集ほど物語るものは無いように思えます。

何故保田與重郎にこのような萬葉集の読み方ができたのでしょう。私が掻い摘んで知り得た保田の言葉から、拙い想像ではありますが、保田という人物は非常に繊細ながら屈強で、自己へも他者へも、或いは民族全体へ対しても、問いかけの熱と圧が非常に高く、それらに正面からまともに答えられる人がそう存在しないのも当然と思わせる情熱を感じます。感動、絶望、問答、何をするにしても全力で真っ直ぐなため、適当に受け流す事が許されない相手であって、楽をしたい人にはこれ以上面倒な相手はいません。

仮に私のその想像が正解の範囲内であるとしたら、萬葉集を手短に分かりやすく現代の価値観に置き換えて考えるなど、保田には到底耐えられない事だったろうと思うのです。徹底して萬葉人としての読みを追求する事の他に、保田にできる読み方など存在しないのです。ではそんな保田の読み方を解説する小川榮太郎の姿勢はどうかと言えば、冒頭で示した通り、時代に身を置く努力をしながら歴史を読むことの重要さを日々口にし続けているのですから、二者の間には、生き方とも呼べるような精神的な部分に於いて、共通点があると考えて良いのではないでしょうか。

そう考えると、この初夏、小川が萬葉の里として知られる奈良県桜井市を訪れたのも、保田の生家を訪れたのも、決して偶然ではなかったのではないでしょうか。次号月刊Voiceに掲載される<後編>も楽しみです。

(スタッフ 平よお)